VISON-1:PROFILE-1/3

◆人生はドラマです◆

⏩緑ドレスメーカー服飾専門学校の長男として1946年、ミッキーマウスと同じ誕生日・11月18日に生まれる。%e8%b5%a4%e3%81%a1%e3%82%83%e3%82%93幼稚園生の時は、身体が弱く父に心配をかけた。小学校低学年までは病弱でした。中学になって体質が変わり、自分でも楽になった。中・高校は目立たない・おとなしい性格の生徒でした。その為に大学進学についても、特に強い要望をもっていたわけでもなかった。%e6%98%ad%e5%92%8c25%e5%b9%b48%e6%9c%8830%e6%97%a54%e6%ad%b39%e3%83%b6%e6%9c%88▶父は福岡の大学で、佐賀から通ってもと考えていたが、母の「男子たるもの、日本の首都・東京で学ぶべし」のアドバイスで上京ができた。感謝です。でも、母の勧める文系は断った。本当はグラフィック関係を学びたかったが、そのような学科は、当時はなかったように想ったが、実家から少しも遠い東京へと、短絡的に建築学科へ進学した。その為、大学での授業は、けっして楽しくはなかった。自業自得です。(苦笑)。ゼッケン自転車旅行
大学での・基礎課程の二年間を八王子で終了して、専門科目になる三年生の夏、大学生活にきちんと向き合えるように、東京から佐賀までの1400kmを自転車で、何と無謀な計画をしました。そして、下宿先の中野坂上から、国道1号 起点 日本橋の0km起点へ向かいました。この日本橋からスタートした。そのことを佐賀新聞に小さな囲み記事として掲載されました。途中でのリタイヤは出来ないよと、オヤジから、宿泊のユースホステルに電話があった。オヤジと河村健太郎さんとの陰謀でした。

1400kmの旅その見張られてる・見守られているという気持ちが、
約1400kmの距離を達成することが出来た。
この御二人に感謝でした♪。

✞主に感謝します✞•*♪❤♪*•

不純な動機で:佐賀に帰るのをためらい、東京に残る為に短絡的に大学院を目指す。全身全霊で、卒業設計のプロジェクトチームを作り、卒業設計を頑張り、そのために実力以上の銅賞が受賞できました。感謝です。その受賞があったので、大学院への進学が出来て、念願の東京に残る事が出来ました。

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▶大学院では、建築の都市計画を学んだ。しかし、不純な動機での大学院進学・都市計画専攻でしたので、卒業後、設計事務所で働く自分の姿に、違和感を感じました。それで、一生の生業にしていけるかの不安で頭が一杯になりました。
⏩卒業後の進路を真剣に迷った。
夏季休暇で帰郷した際、母(校長)のアドバイスで、「一度ファッション・コンテストにでも挑戦したら」とのアドバイスが与えられました。
藁にもすがる思いで、1969年秋冬N.D.C.(日本デザイナークラブ)のコンテストに挑戦する。その時のデザイン画が、下記の左にある小さなデザイン画です。
⏩緑ドレスメーカー服飾専門学校のアトリエの力を借りて、作品制作を共に創りあげて、最悪最高賞のN.D.C.賞が与えられ。地元紙(佐賀新聞)にも紹介されました。感謝です。▶母のアドバイスは、私の人生の進路に、大きな影響力を与えた人です。

ndc-1969-11-2             佐賀新聞1969年11月2日記事

⏩結局、カエルの子は、カエルでした。
翌年の1970年春夏のN.D.C.(日本デザイナークラブ)に挑戦して、1969年秋冬NDC賞で最高賞を受賞に続き、最高賞のNDC賞を連続受賞した。このN.D.C.連続受賞が周りのベテランを驚かした。記が、その時の作品&記事(西日本新聞&佐賀新聞)です。
1970ss-ndc%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%83%86-%e3%82%b9%e3%83%88%e5%85%a5%e8%b3%9e1970-3-12
西日本新聞1970年3月12日記事   佐賀新聞1970年3月12日記事

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杉野芳子賞の受賞記事

⏩1970年・NDCヌーベルコレクションで杉野芳子賞を受賞して、杉野学園の校長・杉野芳子先生との印象的な面談があった。
この出会いは人生のターニングポイントでした。

同時期・東レ重役の御紹介でイッセイ三宅氏に会った。
ホテルオータニで、N.Y.のFIT大学を紹介して頂き、同年N.Y.で夏季講座を受講した。

9月には、昼間は、大学院には通い、杉野芳子校長から、杉野ドレメの夜間部に特別入学で与えられて、夜間部に通った。翌年3月杉野理事長の人生アドバイスで、4月には、建築からファッションの世界に転向を決意して、杉野学園の産業科からデザイナー科へと進学をする

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⏩1972年杉野学園デザイナー科の学生時代、デザイナーの卵:として全国洋裁コンクールで総理大臣賞を受賞が与えられました。このときの総理大臣は、時の人:田中角栄氏でした。記事(朝日新聞&東京新聞)東京新聞の取材には、編集自ら、白金の迎賓館へお越し頂きました。感謝です。

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%e6%9d%b1%e4%ba%ac%e6%96%b0%e8%81%9e⏩上記は、「東京新聞日曜版トップをゆく」で
大きく取上げられた。九州の提携新聞・西日本新聞で、
東京新聞より大きい写真&紙面で内容が掲載された。
後で母から聴いた話「父はとても、喜んだそうです」

⏩1973年東レ入社後・東レインターモード設立に参画。同年8月に初代デザイナーとしてSASKIA(サスキア)ブランドを立ち上げる。専門学校卒業してから、何と5ヶ月目で、ホテルオークラで、異例の服飾デザイナー・デビュ-ショーを経験。チーフデザイナー&企画室長として10年間・オリジナルブランド・SASKIAを担当した。
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⏩インターモード時代にデザイナー&企画室長以外に、クリエーティブ・ディレクターとして、三越様のオスカーデラレンタを担当。更に高島屋様のジェフリー・ビーンを担当。東京~N.Y.を年間8往復往復してした。ジェフリービーン氏は、素材構成の師匠として尊敬しました。それは、ウンガロ氏が、色の魔術師と称されてますが、ビーンさんは、素材の魔術師と命名したいです。脅威の異素材組み合わせをコレクションMTGで視させて頂きました。感謝です❤‼️

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⏩朝日新聞・家庭欄を執筆担当する◀

忙しい事は重なるもので、三宅先生の連載後に、1982年・朝日新聞・家庭欄でSASKIAサスキア商品を紹介する事になる。自分の商品セレクト以外にカメラマンの手配、モデルの手配、スタジオの手配も兼務、その撮影&原稿執筆も担当しました。その結果、異例の1年半の長期連載になりました。感謝します。いつか、別のカテゴリーで詳しく御紹介をします。

%e6%9c%9d%e6%97%a5%e6%96%b0%e8%81%9e1983%e5%b9%b43%e6%9c%8810%e6%97%a5朝日新聞:家庭欄:長期連載
(1982年3月~1983年5月)

その連載記事が、(株)ワールド社長の目に止まり、強い要請があり、東レを退職して、1983年に(株)ワールドに転職をしました。(株)ワールド時代も、事業部長として、オリジナルブランドカンタソワを立ち上げをしました。本当に感謝です。
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1995年・1/17(金)阪神・淡路大震災を岡本で罹災、1月18日(土)早朝から神戸脱出を計画し、TAXIで伊丹空港へ向い、夕方の便で福岡空港経由で、夕方・佐賀へ罹災避難が完了しました。1/21(火)佐賀新聞社へ長男と震災報告に行きました。それが、佐賀初の発信として1/22(水)阪神淡路大震災記事になりました。この震災を機に(株)ワールドを円満退社それは、『困難&患難&試練とともに、脱出の道も備えて下さいました』✞主に感謝します。心機一転・千秋(旧名)陽堂(新名)に戸籍も変更をしました。佐賀新聞1995年1月22日記事

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▶1995年7月7日東京・代官山で企画会社設立する。自社ブランド;MIASTRADA(ミーアストラーダ)を立ち上げました。紆余屈折があり、企画会社から、自ら企画して、自ら生産して、自ら販売するという、メーカーを個人が運営するにが、どんなに大変かも知らずに、大胆にもアパレルメーカーとして、1999年から全国専門店様にイベント受注会という販売チャネルでスタートして、取り扱って頂きました。

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それから約10年後が経ちました。2005年・(株)ワールドブランド・オーセンと、弊社のブランド・ミーアストラーダがコラボ・協業した AJUDA(アジューダ)ブランドのクリエーティブ・ディレクターとして参画しました。

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2015年まで、AJUDA((アジューダ)は、
(株)ワールドとの協業は10年間契約更新されました。
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自社ブランドMIASTRADA(ミーアストラーダ)は、専門店・鐘札銅様の義岡 誠社長に育てて頂いたブランドであるとも言えます。年2回、9月:来春夏商品の受注会・3月:秋冬商品受注会、訪問して17年間。この長きに亘り、豊かな祝福と恵みが与えられました。感謝です。昨年2015年9月の受注会で卒業をしました。凡てに感謝です。

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⏩ファッションの世界で、自己実現の経緯は、東レ株式会社~株式会社ワールド~株式会社グローバルスコープと、それぞれの会社を通して、国内4ブランフド。海外1ブランドが与えられて、成功へ導いて頂きました。そして、昨年2015年9月の協業ブランドの受注会支援で、完全にファッションビジネスの卒業ができました。心から感謝です。『45年間の自己実現は、完全燃焼をしました』これまでファッション産業でお世話になった方々に、御礼申し上げます。

これからの人生は、Good News(福音)の証と、ここまで育ててくれた母が未だ元気な内に、故郷に戻り、『利他実現』の精神で母の支えになれたらと想い計画をしました。(下記の写真は2014年4/22撮影)▶◆想いは、志となり、結果、第三の人生として2016.7/16故郷に戻りました。✞感謝です。

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⏩故郷・佐賀に、2017年7月16日(土)戻ったら、附中第14回同窓生・佐高16回同窓生の方々と御会いました。これまでどうしてた?何故、佐賀に52年ぶりに転居をしたの?と同窓生から質問を受けました。最初は、きちんとに答えてましたけど、段々、後になって雑になってきているKiyotaka(陽堂)に気づきました。

それで、2017年12月25日(金)
・生まれて初めてWordPressでHPを手作り、
「kiyotaka1991」をUPしました。

本当に幼い構成&展開なのに最後まで読んで頂いて、
ありがとうございました⌒(*^ ・^)ノ⌒☆☆♪。